*夏野菜を食べる・きゅうり・ナス編

食の豊かな淡路島では、夏野菜が真っ盛りである。

毎年うちの畑にはきゅうりやナス、トマトなどの定番野菜を育てているけれど、

私はきゅうりの栽培がどうもヘタクソで、特別沢山収穫できたためしがない。

なので、この暑い夏に食べたいきゅうりが不足する、という事態を免れたいがために、

今年は特にきゅうりを沢山植えてみたのだ。

するとどうだろう、なぜかきゅうりはどれも勢い良く育ち、毎日収穫しないと追いつかない程上手く育ってしまった・・

嬉しいやら、忙しいやら、きゅうりの消費に明け暮れる、という日々に悲鳴をあげつつ、大量消費を模索するのである。

*福神漬け

作り方

①大根小ぶり1本、人参1本はいちょう切り、きゅうり4本輪切り、生姜一片千切りにし、塩大2で揉んでおく。

②なす5本いちょう切りにし、塩大1で塩もみ。ナスはアクが強いため、別容器で行なう。

③みりん1/2カップ、お酢大2、醤油1カップ、米飴1カップ、昆布15センチを小鍋で炊き、煮汁を作っておく。

④野菜の水気を絞ってザルに上げ、①と②を合わせておく。そこへ熱い③を上から回しかける。ザルの下にはお鍋で煮汁を受けておく。

ザルを煽って汁を切り、野菜を冷ます。

⑤汁を再度煮立ててアクを取り、野菜に回しかける。これを7~8回繰り返す。

⑥あれば、紫蘇の実漬けの塩抜きしたものを加え、漬物容器に移し替え、熱い汁をかけて重石をし、1日おく。

⑦翌日、具と汁を分け、汁を再度煮立てて(野菜から出た水分を飛ばすため)汁が冷めてから具に戻し、重石をして冷蔵庫保存。2~3日後からが美味しくなる。


福神漬けの名前の由来は、七福神から来ているそうで、7種類の材料を使うらしい。歯ごたえのいいレンコン、香りの茗荷など、あるものを追加してみよう。

穂紫蘇の塩漬けとは・・

①9月頃になると、紫蘇の花が咲き穂紫蘇ができる。その穂紫蘇をしごいて洗い、3%食塩水に20~30分つけてアク抜きする。

②水気を切って20%の塩分を足して容器に入れ、重石をしておく。

③1ヶ月ほど置いて食べる。食べる時は塩抜きし、水気をしっかり絞って使う。

④醤油漬けにしておく場合は、②の水気を絞って醤油をひたひたに注ぐ。10日ほど置いて食べられる。

冷蔵庫保存が安心であるけれど、塩分濃度が高いので常温でも数ヶ月~2年ほど日持ちする。

きゅうりのきゅうーちゃん

①きゅうり10本(約1キロ)1cm幅にカットし、塩小2をかけ10~20分置いて水を出し、軽く絞る。

②生姜千切りを好みの量で①に加える。

③醤油300ml、味醂200ml、お酢50ml、唐辛子1~2本を鍋で沸かし、沸いたところに②を加える。

④軽く混ぜて再度沸いたら火を止め、そのまま冷ます。

⑤ザルできゅうりと汁を分け、汁を沸かして少し煮詰め、冷ましてからきゅうりに戻す。

福神漬けも、きゅーちゃんも、きゅうりの大量消費ではあるけれど、

結局どちらも保存食で味も濃い。バリバリガツガツ食べれるものではないから、配って回る・・

これぞ、淡路島の「食べ助け」文化なのである。

なんでそこなの?

ゴミ大国日本から循環する社会へ

 元々、この地球上にはゴミというものが存在したのだろうか?

現代社会では破棄されたゴミが大問題となっているけれども、生ゴミからプラゴミに始まり、ただ生きているだけで毎日のようにゴミというものが発生している。

それらのゴミは集められ、燃やすか埋めるか、海に流されたり、海外に輸出するものまである。

それらのゴミは私の目の前からはなくなるけれど、見えなくなっただけで、無くなってしまったわけではない。

もうそれらの処理の方法では限界がきていて、これからどうしていくのかという問題も解決されていない。

海には沢山のプラスチックゴミが浮いていて、それを鳥や魚などの生き物が食べて死んでいるし、 粗大ゴミの有料化で山には不法投棄された家電や大型ゴミが捨てられている。

それらを見たり聞いたりした時、心を痛めない人は少なくないと思うが、実際の生活場面でじゃあどうする?といった議論はあまりされていないだろう。

そもそもゴミとは何であるか?

それは、放っておいても自然には還らないもの、 もしくは、自然に還るけれど、それらをひと所に集められたもの、 だと思う。

自然に還らないもの、なんて、自然界にはそもそもないはずで、 人間が作り出す他に発生のしようがない。

自然に還るものも、例えば生ゴミや糞尿などのように一つの場所に集められてしまうと、それもごみとなるのだが、そんなことをするのも人間だけだ。

その、人間が作り出したゴミで、今や地球はゴミだらけの星となりそうである。

さて、ゴミをどうするのか?

個々が、日々の生活の中で、なるべくゴミを出さないように気をつける、といのはとても大切なことであるけれど、

それだけで解決出来る規模ではなくなってきている。

だからといって、もうどうでもいいわ、とゴミのことを考えないのも問題だ。

それになんといっても、ゴミだらけの国に住んでいたくはない。

だからやっぱり考えてみようと思う。

さて、日々の生活で出てくるゴミであるが、 まず多いのが生ゴミだろう。

生ゴミとは自然に還るものだから、何の問題もないように見える。

けれど、生ゴミは水分が多く、他のゴミと一緒に燃やした時に、燃焼温度が下がり、ダイオキシンなどの有害物質を発生させる元となる。

私の暮らしの中では生ゴミというものは存在しない。

人参や大根の皮は剥かずに食べるし、さすがに食べれそうにない痛んだ部分や腐敗させてしまったものは、全て畑に返している。

肉や魚の骨も畑に返すから、ひと所に集めて捨てるということがなく、ゴミとはならない。

大阪万博・民俗学博物館  木やひょうたんのお玉

生ゴミばかり集められると腐敗していくが、 畑に戻した生ゴミは、不思議と腐敗しない。

カラスが突きに来ることもあるし、風にさらされ、乾燥して朽ちていく。

都会では、そうすることはとても難しいかもしれない。

けれど、プランターでもいいから、土に返してみるのもいいと思う。

そこで少しの野菜やハーブを育てる楽しみもできる。

あとは、全草全てを食べる、という気持ちと、食べきれる量を購入し、調理する、ということだろうか。

それだけでも多くの生ゴミが減るだろう。

ひょうたん水筒

飽食の時代というが、そんなことはない。

食料を外国に頼る国なのだ。

農家さんだって、大変な苦労をされて野菜を作っている。

ゴミとなって腐敗させるなんて、もったいないことだ。

機織り機

さて、糞尿はどうしようか?

ひと昔前までは、人の糞尿も畑の肥やしとなっていた。

だから、下水に流してしまうことはなく、トイレで集めたものは畑に返していた。

私の爺ちゃんもそんなことをしていたのを見た記憶があるから、まだそんなに遠い昔の事ではない。

江戸時代では、糞尿を売って歩く商売があったほど、糞尿には価値があるものだったらしい。

けれど、今の時代にそれはできそうにない。

畑に返す、といっても、私達の食べた物の中には化学調味料や添加物がたくさん入っている。

それらを畑に返した所で、畑の肥やしとなるだろうか?

そんな物は返さない方がいいだろう、残念だが…。

槍・鋤

ならば、燃やしてしまおうか?

それとも海に流してしまえば済むのだろうか?

どっちにしても、それらはこの地球からなくなりはしないのだ。

ならば、土や海に返しても大丈夫なように、食べるものを考えることからじゃないだろうか?

食べたものは、私達の体に留まるものや、出て行く物もある。

体の健康のためだけでなく、私達の住処である地球の健康のためにも、健全な食べ物を選び、食べてはどうだろうか?

それが今私達に出来ることではなかろうか?

プラスチックについては簡単だ。

辞めればいい。

プラスチックはとても便利である。

軽くて丈夫で、安く作れて、使ったらポイと捨てればいいから荷物も減る。

忙しい現代社会を生きる人々は、簡易な食事で済ますことが多くなり、毎日の食事のたびにプラスチック製品を安易に使うようになった。

自然に還る素材のものはカビが来たり、虫が食ったり、値段が高かったり、重たかったり、作るのに技術がいったり、色々不便な事が多いから選ばなくなってしまったのだ。

けれど、今、そのようなプラスチック製品が自然に還ることはなく、マイクロプラスチックとなって至る所にばら撒かれてしまった。

それらの被害はご存知だろう。 取り返しのつかない程のプラスチックゴミが地球上にばら撒かれたのだ。

いくら安価で便利だからといって、このまま使い続ける必要はないだろう。

といっても、これだけのプラスチックが日常的に使われている今、あっさり辞めることは難しいかもしれない。

けれど、意識的に減らすことはできるし、せめて、そこらへんにポイなんて少し考えれば辞められるはずだ。

家電製品や大型ゴミはどうだろうか?

最近私が住んでいる市では、家電製品や大型ゴミが有料となった。

市に連絡して、お金を払ってチケットをもらい、それを貼り付けてゴミに出せ、というシステムだ。

ゴミを処分するのにもお金がかかる、だから有料なのだ。

当たり前のことなんだけれど、 正直面倒くさい制度だ。

そう感じる人も少なくないらしく、山の中に不法投棄する人が後を絶たない。

自分で山を持っている人なら、誰にも迷惑はかからないと思い捨てる人もいるだろうし、人の山であっても、見ている人がいないなら大丈夫だろうと考える人もいる。

山に山菜や筍を採りに行って、そんな光景を見ると残念な思いがするものだ。

手紡ぎ、手織りの麻服

どこか、ヨーロッパの方だったと思うが、家電や、大型のものを購入したら、その代金にはゴミ代がプラスされているという。いわゆるゴミ税だ。

いつか、それらはゴミとなるだろうから、買ったその場でゴミ代を払うという前払い制度だそうだ。

おまけにゴミとして処分するとき、少しお金が返ってくるらしい。

後からお金を払えと言われたら嫌だけれど、買ったその代金に含まれているなら、誰も文句は言うまい。

そっちの方が不法投棄はなくなるように思うし、ゴミ税を払うのが嫌なら購入しなければいい。

もちろん、将来ゴミになるような物は初めから買わない方がいいのだが。

といっても、これはどこか外国の制度であって、今の日本の制度ではない。

マネしたらいいのにね。

背負い籠   自然に帰る素材であるにも関わらず、保存状態によっては何十年と使い続けることができる。

1950年代に、テレビ、冷蔵庫、洗濯機の三種の神器が家庭に入ってきた。

これらによって、人々の生活は一変し、より便利快適な生活を求め、より良い製品が作られ、各家庭で何度も買い替えられたに違いない。

もはや、これらのない生活なんて考えられない時代となった。

けれど、これらもやっぱりいつかゴミとなるのだから、せめてマスコミに煽られ不必要に買い換える事を辞める事はできないだろうか?

ここ数年、「断捨離」という言葉をよく耳にする。

要らないものを捨てて、必要最小限のもので生活すると清々しいよ、ということらしいが、 では、断捨離で物を捨てた後、同じようなものを購入していないだろうか。

そしてその捨てられたものはどこへ行ったのか?

「ゴミ」としてどこかに残っているハズだ。

断捨離よりも、今持っているものを長く大事に使うことや、 安いからといって安易なものを購入しない事のほうが、清々しい生活が出来るように思う。

巷はゴミで溢れかえっている。

今現在はまだゴミではなく、使っているものもやがてはゴミになる日がやってくる。

ビルも、車も、電車も、道路も、家も、そしてその中身も全ていつかゴミになる日がくるのだ。

田舎に住み始めてから、そんなゴミに囲まれた生活が嫌で、ゴミになるものを必要最小限に減らした。

自然に還るものに囲まれるとなんだか落ち着くものだ。

ゴミを生み出すのは人間だけ。 ゴミを減らし無くせるのも人間だけだ。

大量生産、大量消費じゃないと儲からないじゃないか、生活していけないんだ!という声も聞こえてきそうである。

そもそもそういう恐怖心が、それらのゴミ問題から目を背けさせてしまうのだろうけれど、 そんなにゴミを作ったり、消費しなくてもちゃんとお金も物も循環する、安心して暮らせる社会を作り直さないといけない時代に来ているのかもしれない。

「ゴミ」という問題は、結局人の不安と比例するものなのかもしれないな。

一度、経済的に豊かな生活をした者は、その生活水準を下げると言うことに極度の不安を抱くのかもしれない。

お金で何でも食べれて、欲しいものはその場で買うことができて、いい家を建て車を買って、使いもしないものを大量に所持し、自分がゴミに囲まれていることに気がつかなくなってくる。

日本という国は電気や水道ガスは当たり前に使えるし、道路もきれいに整備され、公共の交通機関もそろっている。

そのような便利な生活を経験した後に、それらが無い不便な生活に戻るということはとても難しいことだ。

そのような便利なもので、私達の生活は成り立っている。

だからとてもありがたいのだけれど、便利なものの裏には必ずゴミがついて回る。

臭いものに蓋をし続けるのもそろそろ限界がきているのだ。

困ったにゃ

*畑の連作障害

 野菜を栽培していると、連作障害という事が起こってくる。

・・・らしい。

連作障害とは、同じ場所で、何年も同じ作物を育てていると、土壌のバランスが悪くなり、作物がだんだんと育ちにくくなる、という現象のことをいう。

だから、毎年なるべく去年とは違う場所に作物を植えるように気をつけるのだ。

淡路島の慣行農業だと、毎年同じ畑で、一年を通して米、レタス、玉葱、と繰り返し繰り返し休む間もなく作っていくのだが、 肥料をすき込んでいるから、養分という点では問題ないのだろうか。

自然農では、特に肥料をたくさん入れる訳ではないので、 野菜達はその場にある養分で時間をかけてゆっくり育って、寿命を全うする。

だから、あまり連作障害を気にする必要はないと言われている。

じゃあ、実際のところはどうなのだろう。 毎年同じ場所で育てていたら、連作障害で育たなくなるのか、ならないのか…。

ウチの畑で育つ野菜は、 種を畑に直接蒔くもの、ポットで苗を育ててから植えるもの、 もしくはこぼれ種で育つものがいる。

私が種を蒔いたり、苗を植える時はなるべく去年とは違う場所で育てるようにしているが、

こぼれ種で芽を出したものに関しては、間引き以外で私はなるべく手を出さないようにしていて、

野菜達が種を落とした所で勝手に芽を出し、成長し、実をつけるに任せている。

例えば、ゴーヤ、人参、牛蒡、からし菜、ルッコラ、小豆あたりであるが、 毎年同じ場所で育つものもいれば、少しづつ移動しているものもある。

野菜が種を落とす場所は、 自分の足元にポトリと実を落とすもの、(ナス科など)

種の鞘がパーンと弾けて飛び散らかすもの、(アブラナ科やモロヘイヤなど)

花が咲く前にぐーんと背を伸ばして種をつけ、やがて枯れて倒れた所で種を落とすもの、(セリ科など)

ツルをグングン伸ばして地を這った先で実をつけ種を落とすもの、(ウリ科など)

タンポポの綿毛のように、風に飛ばされていくもの、(レタスなど)

美味しい実をつけて、鳥などに運んでもらうもの、(果樹など)

種の鞘のイガイガで、動物に運んでもらうもの、(牛蒡など)

と野菜によって様々だ。

野菜達は、種を落としたい所に種を落としているのだろうか。

ツルを伸ばした距離、

茎を伸ばした距離、

遠くに運んでもらいたいものや、

近場でいいものもある。

移動したいもの、する必要がないもの

それぞれが自ら決めているように見える。

畑のこぼれ種で育つゴーヤは、地這でツルを伸ばすけれど、 毎年ほぼ同じ場所で育ちながら、 少しづつ移動している。

3年ほどかけて隣の畝に移動する程度だろうか。 いわゆる連作障害になりそうな環境であるが、そんなことにはならず、 むしろ私が種を蒔いたものよりずっと元気に勢い良く育ち、沢山実をつけている。

小豆もゴーヤと同じく短めのツル性で、これも毎年ほぼ同じ所で育ちながら、少しづつ移動しているが、 連作障害どころか、毎年実の量を増している。

人参は茎を1〜1・5m位に伸ばして種をつけ、茎が枯れて隣の畝に倒れ、翌年は隣の畝で育っている。

からし菜、ルッコラは、鞘を弾かせ種を飛ばすが、そんなに遠くに飛ばないので、ほぼ毎年連作であるが、こちらも私が蒔いたものより元気で虫食いもなく大きく育つ。

不思議なものだ。

私が、手をかけ、時間をかけて、 連作障害を気にして、 種をまいたり、苗を育てたりしたものよりも、 こぼれ種で、勝手に芽を出し育つものの方が、 連作だろうがなんだろうが、元気でキレイで、実を沢山つけるのだ。

その野菜の事を、本を読んだり、ネットで調べて勉強したりもするのだが、 こぼれ種で育つ野菜のように立派なものを育てられないのだ。

連作がいいのか、悪いのか、 結局はその野菜自身が知っていて、自分で決めているようだから、 それが一番正しい答えなのだろう。

移動したそうだったら離してあげればいいし、

その場がいいなら連作しても問題ないのだろう。

植物達は、いつ芽を出して、花を咲かせ、実をつけて命を終わらせればいいのかということを、ちゃんと知っているはずだから、

人に依存していない野菜であれば、野菜達が生きたい様に、ある程度放っておいた方がよく育っているように思う。

そんな野菜の声を聞きながら、農業していければいいのだが、 なんせ野菜は言葉を発しない。

芽を出してから枯れるまで、半年から1年間その姿を観て、聴きとらなければいけないのだ。

農家は収穫したら、次を育てなければいけないから、 種が出来るまで待てないし、野菜の声を聞くなんて悠長なことをしている暇はない。

だからやっぱりウチの畑は、中途半端な自給農業でも、のんびり野菜の生長を見届けて、彼らの声を聞いてみたいな、と思うのだ。

*日々是好日・・陰陽論

一日の終わりに、今日あった「いいこと」をいくつ思い出せるだろうか。

毎日を当たり前だと思って過ごしていると、 今日の「いいこと」に気がつかなくなってくる。

「 いいこと」、とは 何か特別なこととか、 私の希望が叶えられたというようなものの事だけをいうのだろうか。

そのような「いいこと」がないと、 今日はいい日だったと言えないのだろうか。

いいこと、って一体何なのだろう…。畑仕事をしながらそんなことを漠然と考えるのだ。

ウチの家にはテレビがない。ガスコンロもない。シンクの蛇口をひねってもお湯は出ない。

よくそんな生活をしているね、と人からよく言われる。

けれど、無ければ無いで慣れてくるもので、寒い季節でもお水で洗いものするし、炊き物はカセットコンロと薪火で済ませている。テレビがなくてもインターネットがあれば知りたいことはすぐ調べられる。

だから、それらを欲しと思うことはないけれど、あったらあったでそれらを使うだろう。

もちろん、それらを当たり前に使っていた時期があったけれど、そのときはそんな不便な生活は想像もできなかったし、それらが有って「当たり前」だった。

便利な生活に慣れてくると、蛇口をひねるとお水が出たり、スイッチ一つでお湯が沸いたり、火が付いたりすることにいちいち「やったー!」と感動したり、

「ありがとう!」と感謝したりすることはない。

だって、「当たり前」なんだもんね。

 

ある時都会から友人が遊びに来たので、うちの畑の夏野菜を使ってバーベキューをした。

都会の友人はうちの新鮮な夏野菜を食べてはしきりに、

「美味しい!新鮮だと味が全然違うね!」

と感動している。

そうゆってもらえると嬉しいのだが、都会のスーパーで売られている野菜を久しく食べていない私には違いが全く分からない。

「そうかなぁ・・別に普通だけど・・」

つまり、新鮮な野菜が当たり前になっていて、うちの野菜が美味しいということに気が付かなくなっていたのだ。

なんだかとっても損した気分だ。これからはもっとちゃんと味わって食べようと思った瞬間であった。

・・・

9月の終わりだというのに風邪をひいた。

寝込むほどてはないにしても、体は重く、いつもどうり動けないし、食事も美味しく食べれない。

思い通りに動かない自分の体にイライラすら感じてくる。

けれど、いつもわたしが歳の事も考えず、やりたい放題に体を動かすものだから、体に無理をさせていたのだろう。

無理がたたってついに悲鳴をあげたのだ。

そんなことでもないと、体が私の意志を聞いて自由に動いてくれていたことに気づきもしない。

思う通りに体が動くのが「当たり前」だったのだ。

大切な人を亡くした事がある。

その人とは言いたい放題、やりたい放題でよく喧嘩したものだ。

いなくなって、初めてその人が居て「当たり前」になっていたことに気づいた。

 「当たり前」とはそういうことだ。

本当はありがたい事なのに、それが「当たり前」になった瞬間から ありがたい事ではなくなってしまう。

だから、今日のいい事に気がつかなくなってしまうのだ。

空気があって、水があって、火があって、

食べるものがあって、家がある。

山があって海があり、

家族や友人や大切な人がいて、

そしてわたしの体がある。

今の私に「当たり前の事」がいくつあるだろうか。

「当たり前」の事にありがたみを感じなくなると、今度は特別な「贅沢」で幸せを感じようとする。

現代の日本人はそんな時代になっているのかな。

もしかしたら、少々不便な方が、幸せを感じることが出来るんじゃないかと思っている。

だって、現代の日本では当たり前の事が、うちでは当たり前ではないから、

便利なものがあると「助かるーー!しあわせーー!」

なんて事になってるもんね。

けれど、世間一般で、「当たり前」と思っていることは、実は「当たり前」ではないのだ。

それらを一瞬にして失うこともあるのだから。

それらが、有る、というだけで、もうすでに是好日なのだろう。

(だって、ありがたい、とは”有り””難い”と書くのだから。)

いや、もし失ったとしても、 深い悲しみの中にあっても、

それらが当たり前ではなく、ありがたいことだったのだと気がつけば、

やがて是好日に転化していくのだ。

私にとって、良いことや悪いことは日々日々起こり続けている。

陰陽思想の太極図はこの世で起こる現象全てを現している。

陰極まって陽になり、陽極まって陰になる。

陰の中に陽があり、陽の中に陰がある。

陰の中の小さな陽や、陽の中の小さな陰は、

陰や陽が極まったときから風船の様にプクーっと膨れはじめ、

どんどん大きくなって陰陽が転じる。

だから、陰の中にある時は、その中の小さな陽をあるだけ見つけ、

風船のように膨らませていけばいい。

陽の中にある時は、その中の小さな陰に気づき、

傲慢にならないように気をつけなければいけない。

陽の中にある時は、小さな陰に気がつきにくい。

明るくまぶしい部屋の中に小さな黒い点があっても気がつかないのと同じだ。

陰の中にある時は、小さな陽は探せば安易に見つけられる。

真っ暗な夜空に小さな星が瞬くように、きらきらしているからだ。

夜空をじーっと見続けていると、小さな星のきらきらの数が増えていく。

それと同じで探せば探すほど小さな光をたくさん見つけられるだろう。

陰が悪くて陽が良い、ということではない。

陰がないと陽はないし、 陽がないと陰はない。

光と影があって初めて立体となり、美しい景色が生まれる。

そして私達人間は、対極のものがないと、認識する事ができないのだ。

私達が良いことと思っている事は、いつか悪い事に転じるかもしれないし、

悪い事と思っていた事が、いつか良い事に転じるかもしれない。

良い事の中には少しだけ不満に感じる部分があるし、

悪い事の中にも不幸中の幸いと感じる部分がある。

善玉菌がいるから悪玉菌がいて、

泥棒がいるから、警察がいて、

敵がいるから味方がいる。

私、という一人の人間の中にも天使と悪魔が同居しているのだ。

不自由があるから自由があって、

悲しい事があるから嬉しい事もあり、

辛い事があるから、楽がある。

陰と陽はバラバラであって、セットなのだ。

”どちらからも”、逃れる事はできない。

ならば、 悪いことから逃れようとするのではなく、

私がどちらに意識を向け、それを大きく膨らせるか。

その選択しだいで、今日を是好日にすることができるはずなのだ。

言うは易し、行うは難しで簡単なことではなけれども、

選択するのは結局、私なのだ。

もしそうすることができれば、 特別な事がなくても、

いつでもどこでも何をやっていても私達は、

毎日を日々是好日にしていくことができるのだ。

 

*米飴を作る

甘いものを食べるとなんだか幸せな気分になる。

ほっと一息ついて、気持ちを落ち着かせることができるし、

さっきまで嫌な気分だったのが、甘いものを食べると

まぁいっか、なんてことになる。

一日の中で何度かそんな時間を持ちながら、気分を入れ替えて前に進める・・

なんて大げさな話ではない。

ほんとに甘いものは幸せな気分にさせてくれるものだ。

けれど、白砂糖はあまり体に合ってないな~と思うようになってから、

普段の食事の甘みには味醂を使い、

おやつの甘みには甜菜糖か、黒糖、甘酒や味醂粕を使って十分甘さは事足りている。

3年ほど前に、麦芽から米飴を作ったのだけれど、

なんだかすごい時間と手間がかかったわりに、出来上がりの量がほんの少しだったので、

使うのがもったいなくて、後生大事に冷蔵庫の中にしまっておいたら、

なんとカビが生えてきた。

もちろん捨てたりしない。カビを取り除いて、また冷蔵庫にしまいこむのだ。

早く使えよ!と自分に突っ込みを入れながら。

こんな手間のかかるものは、二度と作らないな、と思っていたけれど、

今年は玄麦が少し残っていたので、もう一度作ってみることにした。

二度目とあって、なんともすんなりと作れてしまい、

そんなに手間もかからないじゃないか、と3年前の自分にあきれてしまうのだった。

米飴の作り方は簡単で、要は、

お米のでんぷん質を、麦芽又は米糀の糖化酵素を使って糖化させたもの(甘酒)を絞って液体を煮詰める。

それだけ。

麦芽で作る場合は少々の手間と時間を要し、3年前の私のように「使うのがもったいない~」なんて事になりかねないので、

まずは米糀を使って作るほうからやってみると、簡単で時間も手間もそんなにかからず作れるのではないだろうか。

*甘酒から米飴を作る

材料:餅米1合  米糀200g /出来上がり約150ml分

①餅米1合に水2合でおかゆを炊く。

②60度以下に冷ましてから米糀を投入し、よく混ぜたものを、50~60度で10時間保温し甘酒を作る。

③さらしで絞って液体と粕に分ける。

④液体を鍋に移し、火にかけ煮詰める。はじめは強めの中火で、少々ほっといてもよい。

⑤少し煮詰まってきて、泡が出てき出したら焦がさないように火を弱め、混ぜ続ける。

ここからは目が離せない。

⑥少しとろみが着き、琥珀色に変化してきたら、好みのとろみで火からおろす。

冷めると固まるので、少しゆるいかと思うくらいでちょうど良い。

約35分程煮つめた。

絞って500mlだった液体は約150mlになる。

保存瓶に入れて冷蔵庫で保管する。ゆるいほど日持ちしないので早めに使うこと。カビが生えたらもったいないもんね。

そのままなめても美味しいよ。

絞り粕も甘くて美味しい。

そのままでも食べれるし、少し水分を足して暖めて生姜を搾って甘酒としても飲める。

この搾り粕で、もう一度米飴を作れないかと思い、

水分を足して、絞って、煮詰めたら、少し白濁した米飴が出来た。

まぁまぁな量の絞り粕なので、おやつの甘みとしてぜひ使い切ってほしいな。

*米飴粕のチーズケーキ

材料

A・米飴粕400g 酒粕クリーム100g 好みの油70g

レモン果汁50g 塩ひとつまみ

B・粉60g BP10g 重曹小1/2

オレンジピールやナッツ、レーズンなど好みのもの50gなくても◎

作り方

材料Aを全てボールに入れ、乳化するまで混ぜる。

よく混ざったら、Bを加え、さっくり混ぜて170度のオーブンで45分焼く。

砂糖はいっこも入っていないけれど、十分な甘みがあるチーズケーキもどきが出来る。

米飴粕の量を減らしてバナナにしても、これまた美味しい。

酒粕クリームとは、

酒粕5に対しお湯4を加えクリーム状に練ったもの。

クリーム状なので使いたいときにすぐ使えて便利なもので、

うちは常にクリーム状の酒粕が用意されガンガン使っている。

お勧め。

酒粕を入れずに焼いたら、普通のパウンドケーキになるので

色々アレンジしてね!

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*麦芽から米飴を作る

材料:玄麦70g  白米2合

①玄麦を発芽させる。根っこが出てくるまで2日ほど(気温により変化する)水につけておく。毎日水を換える。

②まず”根っこ”が出てくる。根が出てきたら、ザルに入れ替え、乾燥しないようにビニール袋を被せ、毎日水をかける。

③根が3本出た後、”芽”が出てくる。芽が麦と同じ長さくらいになったら完成。これはちょっと芽が成長しすぎた。

④フードプロセッサーで挽く。

⑤すぐに使わない場合は乾燥させておくといつでも使える。

⑥白米2合を水4合で炊きおかゆをつくる。

⑦炊けたおかゆを60度以下まで冷ましてから麦芽を入れ混ぜる。

⑧50~60度で10時間保温し糖化させる。

⑨晒しで絞り、液体と粕に分ける。

⑩液体を煮詰める。ここからは甘酒米飴と同じ。

煮詰めた時間は約1時間。液体800mlが煮詰めて250mlほどになる。

↓は煮詰めすぎた。飴になる手前までいったのでお湯を入れて煮詰めなおす。

米飴作りは発酵ではなく、酵素による「糖化」である。

発芽した玄麦には糖化酵素のアミラーゼがたくさん出ていて、お米のでんぷんを糖に分解してくれる。

米糀も同じく糖化酵素がたっぷりあるから、お米のでんぷんを糖化しているのだ。

それだけでも甘いのに、それをさらに煮詰めることで、まさしく「飴」のような甘さになる。ついでに火を入れることでメイラード反応がおきてコクが出る。

出来上がりは少量になってしまうから、あ~やっぱりもったいない、と思ってしまうのだ。

「入れて」ってゆうから開けたのに入らない子。

*種を採るということ

 

昨年4月、種子法が廃止された。

そして次は、「農家は作物の種子を自家採種してはならない」なんてことまで法律で決めようとしているらしい。

「農家は」とあるので、農家でない私は今まで通り種を採り続けるのだが、もしかしたら固定種や在来種の種を購入する事も出来なくなるかもしれない。

それはとても困る事だ。

この法律が施行されてしまうと、農家さん達は種を毎年必要な分だけ購入しなければいけないのだが、その種は在来種や固定種ではなく、遺伝子組み換え(GMO)やF1種(一代交配種)が主となる。

では、遺伝仕組み換えやF1種とはどういう種なのだろうか?

それらの作物を食べても体や心に影響はないのだろうか。

何の説明もなく、さらーと日本に入ってきたので、この種の事をきちんと知っている日本人はとても少ないと思う。

(興味がある人は自分で調べて知っておいた方が良いと思う。)

そして、実際にその種を使って農作物を作っている農家さんですら、その種の正体を知っている人は少ないだろう。

だから、農作物を作っている農家さん達は、なんの悪気もなく、ただ一生懸命に農作物を育てているのだ。

モンサント社の除草剤だってそうだ。

その除草剤が、どんな悪影響があるかなんて何の説明もなしに、

ただ単に、「とても労力のかかる除草がこれ一本で済みます!」

なんて美女がニコリとして宣伝されたら、悪いものだなんて想像もせず、

だからやっぱり悪気は全くなく除草剤をがんがん使うことになる。

日本以外の国では、モンサントの除草剤は使わないし、遺伝子組み換え作物は食べないし、輸入しないよ、という流れが起きている中、

日本だけがなぜか、除草剤は禁止しないし、遺伝子組み換え作物もたくさん輸入している。その危険性すら国民に説明はない。

消費者である私達は、外国の人は嫌がって食べないようなそれらの食品を毎日買って食べているのだ。

けれどもう、「農家は作物の種子を自家採取してはならない」なんて法律が通りつつある今、「知らなかった」では済まないことになってくる。

 

遺伝子組み換え作物や、F1種の作物は、病害虫に強く、大きく、甘く、形もそろって見た目はきれいで、値段もとても安くすることが出来る。

農家にとっても作りやすく、消費者にとっても魅力的な作物が出来上がる。

消費者にとっても、農家にとってもお得なようにみえるのだが、さてそれが本当にお得なのか、自身でよく考え選んで欲しい。

自分達が、毎日食べる食事で私の心身が出来ているのだ。

あなたやあなたの家族に心身のトラブルはないだろうか?

どんなものを体に取り入れ、何を排除するべきか、自分や家族が食べる物が何者なのか、ちゃんと選択しなければならない時代がやって来た。

「買い物は、投票」なのだ。

消費者が選択するものを生産者は作るのだ。

スーパーに並んでいる野菜や食品がどんな物なのかを知り、

遺伝子組み換え作物は食べません、と消費者が伝えることで、農家は必然と作る物を変えてくる。

「農家は作物の種子を自家採種してはならない」という法律は

農家の問題だけではなく、

それらを毎日買って食べる消費者の問題でもあるのだ。

「消費者が選択するものを生産者は作り続ける。」

こんな簡単な法則なのだ。

見た目や、金銭に左右されず、きちんと中身を見て選択すれば、

一瞬で世界は変わる。

自身の心身の健康も取り戻せるだろう。

子供のアトピーも回復するだろう。

日本の死因の上位である癌や自殺は減少するだろう。

そして、日本の地力も回復し、豊かな国となるだろう。

だから、「農家は作物の種子を自家採取してはならない」なんて法律が通ってしまったとしても、

私は自分の種を採り続け、固定種や在来種の種を蒔く。

遺伝子組み換え作物や、F1作物や除草剤は、私達の暮らしや土地を豊かにはしない。

先人達は、代々農作物を育てながら、大きく育ったもの、美味しいもの、調理しやすいもの、健康に育ったもの、病気に強いものなどを選抜しながら種を採り繋いできた。

そうすることで、その土地の気候に合ったもの、その土地の土に合ったもの、その土地に住む人の体に必要な栄養素を含むものに作物は長い時間をかけて変化してきた。

人が選抜し、その人その土地に合った作物に変化し、多様性が生まれた。

固定種や在来種とは、長い長い時間をかけて、先人が作り上げた種なのだ。

安くて見た目がきれいで大きな野菜より、ずっとずっと価値あるものだと思っている。

だから、種を採らない、という選択肢は私にはないのだ。

「法律は守らなければいけない」という人もいるだろう。

けれど、守らなければいけない法律とは何か?

そもそも法律とは何だったのか?

「農家は作物の種子を自家採取してはならない」という法律は、私たち国民(人間)を守ろうとしているだろうか。

ごく一部のグローバル企業が得をする、

それを法律というのだろうか。

 

 

ヴァンダナ・シヴァの「いのちの種を抱きしめて」

スワデジ:自給と地産地消、自分で採取し、作物を育てること。産業に依存せず、地元の市場を核とする経済。

サティヤグラハ:不正にNOと言う。権力の脅しや暴力に屈せず、私は従わない、と言うこと。

チプコ:抱擁、愛するものを抱きしめる。暴力に対して暴力で対抗するのではなく、愛するもの(種)を抱きしめる、という抵抗を示す。

 

自分の身は自分で守らなければいけない。国はもう守ってはくれないのだから。

 

日本国民はもうそろそろ目を覚まさないといけない。

 

いつも、本当にしなければいけないことは、国や大企業ではなく、

小さなローカルコミュニティーから起こるものだ。

ただ悲観するのではなく、農家も消費者も各々がやれる事を少しづつでもやっていくしかないのだ。

 

 

*慣行農法とオーガニックの融合

 

2010年に淡路島に移り住んで、じいちゃんの畑を一緒に耕し始めた。

じいちゃんの畑はゴミでいっぱいだった。

畝の上には絨毯や毛布、土の中からは電池に時計、ホッカイロ、ビン缶、袋に入ったままの化学肥料。なんでも出てきた。

燃やせるものは全て燃やしていた。燃やせないものは埋めていた。

じいちゃんは大正元年生まれの人だから、土に還る物しかない時代を生きてきた。

だから、なんでも土に埋めておけば消えてなくなると思っていたらしい。

プラスチックなどの土に還らない物など分別することは出来なかったのだ。

私は気が狂ったように掃除した。

ゴミというゴミを全て分別し処分した。

燃やせない物も燃やしていたので、ここで野菜を作るのは少々気持ち悪かった。

そんな私を横目に、じいちゃんは大好きな黒飴をポケットから出して食べ、小袋を畑にポイと捨てた。それもいちいち拾って回った。

その翌年、じいちゃんは天に帰った。

ほぼ1世紀を生きたじいちゃんは、亡くなる2か月前まで好きな畑を耕していた。

入院していたじいちゃんは、退院したら自分でサツマイモの苗を植えるから、と私にサツマイモの苗を買わせてはくれなかった。

まだまだ自分でやる気だったのだ。

私と畑の取り合いをして、叔母をあきれさせた。

勝手に自然農とか初めてしまった私に、

「なんであいつは草を放ったらかしにしてるんや!」と怒っていた。

98にもなるじいちゃんに、自然農が云々・・なんて、とてもじゃないけど言えなかった。

慣行農法で苦労してやってきた、じいちゃんの人生を否定できなかったし、畑にゴミを埋めてしまうじいちゃんの事も否定できなかった。

だって、じいちゃんにはそれしか選択肢がなかっただろうから。

私はじいちゃんを尊敬していた。

子供のころから、この人はなんだかわからないけど凄い人だと思っていた。

だけど、ここに住んでみて分かったのは、すごいのはじいちゃんだけではなかったということだった。

淡路島の人達が凄い人達だったのだ。

じいちゃんみたいに凄い人はそこらにゴロゴロいっぱいいた。

農家に定年はないから、80を過ぎて農業を続けているのは当たり前。

若者より目を爛々とさせ、生き生きしているのだ。

淡路のネイティブには脱帽である。

畏怖の念すら抱いてしまうのだった。

昨今、オーガニックだ、有機農法だと価値観の転換が起こる時代となった。

淡路島には、有機農業を始める若者が増え、

慣行農法でやってきたこのネイティブ達と入り混じりながら、少しずつ景色が変化してきた。

はじめは「有機農業なんかで野菜や米はできねえ!」と言い張っていたじいさんも、最近では

「うちの野菜は農薬使ってへんでー」とそれを売り文句にし始めた。

長年慣行農業をやってきたネイティブ達にとって、新しい価値観の有機農業なんて

まったく話にならないことだろうと思いきや、

以外に否定もせず、すんなり新しい価値観を受け入れ始めた。

生産者は消費者のニーズに沿って作物を作っている。

けれど、長年大きくて安くてきれいで美味しい作物を求められ、

その通りに作ってきた農家さん達が、

最近いきなり無農薬の野菜が欲しいと言われて、戸惑わないわけがない。

しかも、今現役の農家さんはそこそこの高齢者たちだ。

それでも、生産者は消費者のニーズの変化に敏感なのだろう。

近所の農家のおっちゃんも、

「最近はインターネットで無農薬の野菜が売れていると言うが、本当か?」

とわざわざ聞きにきた。

いまさら有機農業に変更したくはないが、やっぱり気になるのだろう。

けれどうちの畑を見て、

「お前のような畑では、やっぱり野菜は栽培できない」と言って帰っていったが・・。

それでも消費者が求めていない物を作っても意味はないのだ。

消費者の意識の変化しだいで、このおっちゃんも農業の仕方を考える時が来るだろう。

慣行農業を長年営んできた淡路島のネイティブ達の力は偉大だ。

その人たちが、消費者のニーズに合わせてオーガニックな野菜を栽培し始めたら・・

消費者のニーズによってはそんな未来も遠くはないのかもしれない。

 

今だに畑から出てくるじいちゃんの黒飴の袋を見つけては、そんな妄想を抱くのだった。

 

*日本の食糧自給率と美味しいもの

 

平成29年度の日本の食料自給率は、

 

カロリーベースで38%

生産額ベースで65%

 

だそうである。

年々、日本の食料自給率は下っているそうだ。

といっても、都道府県別の食料自給率を見てみると、

北海道や東北などは100%〜200%程もあり、

極端に低い所は東京、大阪でなんと 1%となっている。

地方によって自給率は大きく異なる。

 

どっちにしても、日本で生産される食料で、日本人は養えていないと農水省は言っている。

淡路島に住んでいると、周りは農家さんがたくさんいるので野菜を分けてもらえることも多いし、

私自身も米や野菜を育てている。

野草や山菜はその季節になると有り余る程だ。

お肉は猪や鹿肉があるし、

魚貝はタダでは回ってこないけれど、新鮮で美味しいものは手に入る。

ありがたい事に、食料自給率が低いという印象は全くない。

 

島外の物を買うとしたら、

油や調味料、加工品、小麦粉、大豆、

興味本位で買ってみる外国産の嗜好品などだろうか。

特に急いで必要な物はない。

そもそも日本という国は、

春夏秋冬という四季があり、

海に山に川に陸地がある。

そしてなんといっても水が豊富で綺麗な国だ。

それゆえ日本人が食することの出来る食材の種類は豊富で、

1万2千種類もあるそうだ。

それに比べてヨーロッパの食材は2千種類というから

日本の豊かさがよく分かる。

 

…にもかかわらず、

なぜ食料が足りていないのだろうか。

いや、本当に足りていないのだろうか。

日本と言う土地が、日本人を養う潜在的能力は十分にあると思うのだが。

日本の食料自給率が下がった原因として、

日本人が日本食を食べなくなったことが大きな要因とある。

米よりパンを食べ、

味噌汁よりスープを飲み、

魚より肉を、

餡子より生クリームを、

日本茶よりコーヒーや紅茶を飲むようになった。

私もパンや小麦を使うお菓子が好きで、毎日のように食べている。

 

小泉武夫氏の「食と日本人の知恵」という本がある。

日本人が作り出してきた、発酵食品や加工品、保存食、調理法、出汁…等々の食材を美味しく食べる知恵が盛り沢山に載っている。

日本の1万2千種類の食材を、いかに「美味しく」食べるか、

そして食材がない時期にも、いかに「飢えることなく美味しく食べるか」ということに知恵を絞り、工夫し、編み出してきた長い歴史が日本にはあった。

 

日本人は五味以外に「旨味」があることを知っており、

いかに「旨く食べるか」、に知恵を絞ってきた。

読んでいると唾液が出てくる本であるが、

日本食って、アミノ酸調味料を使わなくても十分に美味しいものだということを教えてくれる。

わざわざ海外の遠い所からの食材を日常的に食べなくても、

こんな身近に美味しいものが沢山あり、美味しく食べる知恵が日本にはあるのだ。

そして、日本には「旬」があり、

そんな旬の物は安くたくさん食べれて、栄養価も高く、なによりそのままで十分美味しい。

遠ければ遠いほど、そんな旬の美味しさは味わえないものだ。

 

日本人が日本食を食べることで食料自給率が上がるのも大事なことだが、

それよりも、そんな美味しいものを日常的に食べないなんて、勿体無い、と思うのだ。

宝の持ち腐れ、とはこのことだろう。

嗜好品や、たまの楽しみとしてよその国の物を食べるのもいいが、

日本の美味しい食材を、日本人が築き上げた調理法で美味しく食べる方法がもうすでにあるのだから。

 

日本の、出来るだけ自分の地域の食材を、日本人が築いた知恵を使って美味しく食べる。

それだけで、日本の食料自給率はあとからついてくるのではないだろうか。

 

*小豆を磨く津田じぃさん

 

ウチの近所に住む津田じいさんは、野菜を少し作っては直売所へ持って行き小銭を稼いでる。

とても上手に野菜を作る人で、

収穫した野菜も丁寧に洗い、袋詰めし、

なおかつ値段も安いときている。

あんまり安すぎて、お店の人からもう少し値段を上げろ、と注意されるのだが、耳が遠いのを良いことに、聞こえないふりをして置いて帰る。

そんなに手間暇かけた野菜の値段を上げない理由はただ一つ。

「売れない」からだ。

ある時、沢山収穫した小豆の選別を手伝う事があった。

この中から良いものをより分けろ、と言うからその通りしたら、

私が選んだ良いものの中から

「これはダメ、それもダメ」とダメ出しされ、

さらに沢山の小豆が弾かれた。

販売用に残った小豆はほんの一握り。

ほとんどが二級品で売れないから、お前たちにやる、と言うのだ。

二級品とはいえちゃんと食べれるものだから、タダで貰えるのはありがたい。

しかし、販売しようと思ったら、そんなに厳しい目で見なければいけないのだろうか?

別に虫食いでもないし、

少し小さいとか、形が歪んでるとか、ちょっとした事なのに。

さらに津田じいさんは、選んだ一級品をタオルでピカピカに磨き上げた。

そうしないとやっぱり「売れない」と言うのだ。

農家にとって野菜達は「売れない」と意味がない。

生活するために作っているのだから。

売れない商品は誰かにあげるか、

場合によっては処分される。

買ってもらえないものを作る意味がないのだ。

それにしても大変な手間だ。

だからといって、高い値段を付ける訳でもない。

お金を稼ぐ為とはいえ、こんな事できないなぁ〜と思った。

小豆はウチの畑でも育てているが、虫も食わず、大粒で綺麗な小豆なんてほんの少ししか出来ない。

農薬や肥料を使わないと綺麗に作るのはムリだろう。

その中から綺麗な物だけ選び、磨きあげ、安くで売るなんて

いくら時間があって暇な私でも出来る事ではない。

日本の農家の数は確実に減ってきている。

農家の子供は農業を継ぐことは出来なくなった。

機械や農薬肥料代等のお金はかかり、時間や労力もかかるのに、野菜や米の値段が下がり、農業だけでは食っていけなくなった。

今残っている小規模農家は年金をもらいながら続けている高齢者達がほとんどだ。

この人達がいなくなる10年後くらいには、農家の数はもっと減っているだろう。

小規模農家から大規模農業に転換しつつある。

大規模になればなるほど、農薬や肥料はたくさん使わないと管理出来ないし、

種もF1(一代交配種)や遺伝子組替えを当たり前に使うだろう。

それでも食料は足りないから、

益々外国からの食料に頼らなければ食べていけない時代となる。

農業はある意味バクチだ。

夏の暑さは異常な程だし、夕立なんて降らなくなり、

降ったと思ったら災害級になった。

畑の野菜達にもその影響は大きく、日照りで枯れたり、大雨で根腐れしたりでダメになる。

特に無農薬で野菜を育てていると、そんな気候の変化で虫食いが増えたり、傷物が増えたりしてB級品がたくさん出る。

十分食べれるものでもB級品は買って貰えないから、破棄するしかない。

そんな自然災害や、病気が流行って全てダメになってしまったり、薬代と機械代がかさみ儲からなくなってしまった。

病気や災害で野菜の数が減ると、野菜の値段は驚く程上がる。

運良く収穫できた農家さんはラッキーだが、収穫がなかった農家さんは指をくわえて見ているしかない。

今時そんなバクチ農業をしようと思う若者は少ないだろう。

耕作放棄地が増え、畑や田んぼは山に帰ろうとしている。

都会の消費者は、そんな農業の現状を知る機会は少ない。

だから何も知らずに買っては食べ、

食べ残しては処分してしまう。

私も消費者だった頃は、そんな事を知りもせず、考えもせずに食べ、食べきれずに処分していた。

国内外産は関係なく、安い米や野菜や肉を消費していたし、野菜は値段が上がると買わなかった。

自分で米や野菜を育ててみると、

米や野菜の値段がどれほど安いか思い知らされたし、

それらを作り続ける農家さんに対して足を向けて寝れなくなった。

ここ数年、淡路島には自然栽培や有機栽培で農業を始める若者が増え続けるという現象が起きている。

そんな大変な農業を始めるなんて、

私にはとてもマネできない事だ。

もう、足をどちらに向けて寝たらいいのか分からなくなった。

機会があれば、そんな彼らの野菜を手に取り、味わってみて欲しい。

自然の恵みと命の味がする事だろう。

 

 

*ヒエという嫌われ者

 

田植えが終わった7月になると、畑や田んぼにはヒエという稲科の草がたくさん生えてくる。

水があろうがなかろうが関係なしに、強く元気に勢い良く成長する。

だから、畑の野菜や田んぼの稲は、この強いヒエに負けてしまうこともしばしばだ。

稲や野菜よりも後から芽を出すくせに、成長スピードが速いので、米や野菜の背丈はすぐに追い越されてしまう。

少しの間目を離した隙に、驚く程大きくなっているのだ。

大きくなってくると、深く根を張るので、引っこ抜くのも一苦労。小さい内に抜いておこうとこちらは必死になるのだが、ヒエはそんなことはお構いなしに遅れて芽を出すものもいて、結局イタチごっこなのである。

田んぼに生えるヒエの苗はお米の苗にそっくりで、関心するほどだ。まるで、ヒエは米の姿を知っていて、人を騙しているかのようだ。

そんな強いヒエを見ていると、米がヒエの様に強ければ良かったのに、もしくはヒエが食べやすく、とても美味しい植物だったら良かったのに、と思ってしまう。

こぼれ種で毎年芽を出して、水があろうがなかろうが成長し、他の草に負けない強さを持ち、肥料なんてあげなくても大きく育ち、実を沢山つける。そんな米だったら、わざわざ栽培せずとも、人間は遊んで暮らせるのに…。

ヒエだけでなく、セイタカアワダチソウや、ギシギシやスイバなど、自然に生えている草は、人に栽培されずとも立派に育っている。それらを人が美味しく食べられたなら、誰も食べるものに困らず暮らせるのに…。

なんて、怠け者のような事をついつい考えながら眺めている。

しかし彼らは、なんでそんなに強くなったのか?

野菜や米とは明らかに違うのだ。

私達人間は、自分にとって都合の良いものと悪いものを分別し、都合の悪いものを排除しようとするクセがある。

草でも虫でも菌でも、時には人間同士でも。

そしてその排除という扱いを受けたモノは、どうも強くなっていくように思える。

例えば、MRSA(メチシリン耐性黄色ブドウ球菌)という菌がいる。

介護や看護職の人ならばよく知っている菌だ。

元々は、ただの黄色ブドウ球菌だったこの菌は、免疫力の低下した病人や年寄りが感染すると死に至る事もあり、病院や施設での院内感染が問題となっていた。

だから人は、この菌をバンコマイシンという抗生物質を使って殺した。

ところがほんの一部だけ、バンコマイシンでは死なない黄色ブドウ球菌がいた。

で、バンコマイシンでは死なない黄色ブドウ球菌だけが生き残り、繁殖した。

だから今度は、メチシリンという抗生物質でもって黄色ブドウ球菌を殺した。

ところがやっぱり、メチシリンでは死なない黄色ブドウ球菌がほんの一部だけ生き残った。

で、メチシリンでは死なない(メチシリンに耐性を持った)黄色ブドウ球菌が出来上がったのだ。

人はこんな事を、何度も何度も繰り返してしまうのだ。

だって、相手は強く、勝ち目がないから怖いのだ。

けれど、殺虫剤では死なない虫が出てきたり、除草剤では死なない草になったり、排除しようとすればする程、相手は強くなるようだ。

除菌や除草もほどほどにしておかないと、相手はますます強くなり余計に怖い事になる。

逆に、大事に過保護に育てると、植物でも虫でも動物でも人でも弱くなってしまうのではないだろうか?

現代人は免疫力や回復力は低下し、アトピーやアレルギーが増え、昔の人と比べると弱々しくなっていないだろうか?

巷では、「除菌しましょう!」とテレビに煽られ、手や体や部屋中いたるところを殺菌しようと躍起になっているし、

おにぎりをお母さんが素手で握ったり、糠床を素手でかき回すのは「汚い」という意見まで出る始末である。

子供を守りたい気持ちは分からなくもないけれど、少々のばい菌や、お母さんについている常在勤を子供が摂取することで、免疫力も上がると思うのだが。

大事なものを、大事に扱えば扱うほど弱くなり、

要らないものを排除したり雑に扱えば扱うほど強くなっていくように見える。

 

ヒエは怖い。負けるのが分かっているから怖く、排除しようとするのだ。

けれど、その生きる強さと知恵には脱帽してしまう。

だから今日も、尊敬の念を込めながら、田んぼのヒエを引っこ抜くのだ。