元々、この地球上にはゴミというものが存在したのだろうか?
現代社会では破棄されたゴミが大問題となっているけれども、生ゴミからプラゴミに始まり、ただ生きているだけで毎日のようにゴミというものが発生している。
それらのゴミは集められ、燃やすか埋めるか、海に流されたり、海外に輸出するものまである。
それらのゴミは私の目の前からはなくなるけれど、見えなくなっただけで、無くなってしまったわけではない。
もうそれらの処理の方法では限界がきていて、これからどうしていくのかという問題も解決されていない。

海には沢山のプラスチックゴミが浮いていて、それを鳥や魚などの生き物が食べて死んでいるし、 粗大ゴミの有料化で山には不法投棄された家電や大型ゴミが捨てられている。
それらを見たり聞いたりした時、心を痛めない人は少なくないと思うが、実際の生活場面でじゃあどうする?といった議論はあまりされていないだろう。
そもそもゴミとは何であるか?
それは、放っておいても自然には還らないもの、 もしくは、自然に還るけれど、それらをひと所に集められたもの、 だと思う。
自然に還らないもの、なんて、自然界にはそもそもないはずで、 人間が作り出す他に発生のしようがない。
自然に還るものも、例えば生ゴミや糞尿などのように一つの場所に集められてしまうと、それもごみとなるのだが、そんなことをするのも人間だけだ。
その、人間が作り出したゴミで、今や地球はゴミだらけの星となりそうである。

さて、ゴミをどうするのか?
個々が、日々の生活の中で、なるべくゴミを出さないように気をつける、といのはとても大切なことであるけれど、
それだけで解決出来る規模ではなくなってきている。
だからといって、もうどうでもいいわ、とゴミのことを考えないのも問題だ。
それになんといっても、ゴミだらけの国に住んでいたくはない。
だからやっぱり考えてみようと思う。

さて、日々の生活で出てくるゴミであるが、 まず多いのが生ゴミだろう。
生ゴミとは自然に還るものだから、何の問題もないように見える。
けれど、生ゴミは水分が多く、他のゴミと一緒に燃やした時に、燃焼温度が下がり、ダイオキシンなどの有害物質を発生させる元となる。
私の暮らしの中では生ゴミというものは存在しない。
人参や大根の皮は剥かずに食べるし、さすがに食べれそうにない痛んだ部分や腐敗させてしまったものは、全て畑に返している。
肉や魚の骨も畑に返すから、ひと所に集めて捨てるということがなく、ゴミとはならない。

生ゴミばかり集められると腐敗していくが、 畑に戻した生ゴミは、不思議と腐敗しない。
カラスが突きに来ることもあるし、風にさらされ、乾燥して朽ちていく。
都会では、そうすることはとても難しいかもしれない。
けれど、プランターでもいいから、土に返してみるのもいいと思う。
そこで少しの野菜やハーブを育てる楽しみもできる。
あとは、全草全てを食べる、という気持ちと、食べきれる量を購入し、調理する、ということだろうか。
それだけでも多くの生ゴミが減るだろう。

飽食の時代というが、そんなことはない。
食料を外国に頼る国なのだ。
農家さんだって、大変な苦労をされて野菜を作っている。
ゴミとなって腐敗させるなんて、もったいないことだ。

さて、糞尿はどうしようか?
ひと昔前までは、人の糞尿も畑の肥やしとなっていた。
だから、下水に流してしまうことはなく、トイレで集めたものは畑に返していた。
私の爺ちゃんもそんなことをしていたのを見た記憶があるから、まだそんなに遠い昔の事ではない。
江戸時代では、糞尿を売って歩く商売があったほど、糞尿には価値があるものだったらしい。
けれど、今の時代にそれはできそうにない。
畑に返す、といっても、私達の食べた物の中には化学調味料や添加物がたくさん入っている。
それらを畑に返した所で、畑の肥やしとなるだろうか?
そんな物は返さない方がいいだろう、残念だが…。

ならば、燃やしてしまおうか?
それとも海に流してしまえば済むのだろうか?
どっちにしても、それらはこの地球からなくなりはしないのだ。
ならば、土や海に返しても大丈夫なように、食べるものを考えることからじゃないだろうか?
食べたものは、私達の体に留まるものや、出て行く物もある。
体の健康のためだけでなく、私達の住処である地球の健康のためにも、健全な食べ物を選び、食べてはどうだろうか?
それが今私達に出来ることではなかろうか?

プラスチックについては簡単だ。
辞めればいい。
プラスチックはとても便利である。
軽くて丈夫で、安く作れて、使ったらポイと捨てればいいから荷物も減る。
忙しい現代社会を生きる人々は、簡易な食事で済ますことが多くなり、毎日の食事のたびにプラスチック製品を安易に使うようになった。
自然に還る素材のものはカビが来たり、虫が食ったり、値段が高かったり、重たかったり、作るのに技術がいったり、色々不便な事が多いから選ばなくなってしまったのだ。
けれど、今、そのようなプラスチック製品が自然に還ることはなく、マイクロプラスチックとなって至る所にばら撒かれてしまった。
それらの被害はご存知だろう。 取り返しのつかない程のプラスチックゴミが地球上にばら撒かれたのだ。
いくら安価で便利だからといって、このまま使い続ける必要はないだろう。
といっても、これだけのプラスチックが日常的に使われている今、あっさり辞めることは難しいかもしれない。
けれど、意識的に減らすことはできるし、せめて、そこらへんにポイなんて少し考えれば辞められるはずだ。

家電製品や大型ゴミはどうだろうか?
最近私が住んでいる市では、家電製品や大型ゴミが有料となった。
市に連絡して、お金を払ってチケットをもらい、それを貼り付けてゴミに出せ、というシステムだ。
ゴミを処分するのにもお金がかかる、だから有料なのだ。
当たり前のことなんだけれど、 正直面倒くさい制度だ。
そう感じる人も少なくないらしく、山の中に不法投棄する人が後を絶たない。
自分で山を持っている人なら、誰にも迷惑はかからないと思い捨てる人もいるだろうし、人の山であっても、見ている人がいないなら大丈夫だろうと考える人もいる。
山に山菜や筍を採りに行って、そんな光景を見ると残念な思いがするものだ。

どこか、ヨーロッパの方だったと思うが、家電や、大型のものを購入したら、その代金にはゴミ代がプラスされているという。いわゆるゴミ税だ。
いつか、それらはゴミとなるだろうから、買ったその場でゴミ代を払うという前払い制度だそうだ。
おまけにゴミとして処分するとき、少しお金が返ってくるらしい。
後からお金を払えと言われたら嫌だけれど、買ったその代金に含まれているなら、誰も文句は言うまい。
そっちの方が不法投棄はなくなるように思うし、ゴミ税を払うのが嫌なら購入しなければいい。
もちろん、将来ゴミになるような物は初めから買わない方がいいのだが。
といっても、これはどこか外国の制度であって、今の日本の制度ではない。
マネしたらいいのにね。

1950年代に、テレビ、冷蔵庫、洗濯機の三種の神器が家庭に入ってきた。
これらによって、人々の生活は一変し、より便利快適な生活を求め、より良い製品が作られ、各家庭で何度も買い替えられたに違いない。
もはや、これらのない生活なんて考えられない時代となった。
けれど、これらもやっぱりいつかゴミとなるのだから、せめてマスコミに煽られ不必要に買い換える事を辞める事はできないだろうか?

ここ数年、「断捨離」という言葉をよく耳にする。
要らないものを捨てて、必要最小限のもので生活すると清々しいよ、ということらしいが、 では、断捨離で物を捨てた後、同じようなものを購入していないだろうか。
そしてその捨てられたものはどこへ行ったのか?
「ゴミ」としてどこかに残っているハズだ。
断捨離よりも、今持っているものを長く大事に使うことや、 安いからといって安易なものを購入しない事のほうが、清々しい生活が出来るように思う。
巷はゴミで溢れかえっている。
今現在はまだゴミではなく、使っているものもやがてはゴミになる日がやってくる。
ビルも、車も、電車も、道路も、家も、そしてその中身も全ていつかゴミになる日がくるのだ。
田舎に住み始めてから、そんなゴミに囲まれた生活が嫌で、ゴミになるものを必要最小限に減らした。
自然に還るものに囲まれるとなんだか落ち着くものだ。
ゴミを生み出すのは人間だけ。 ゴミを減らし無くせるのも人間だけだ。
大量生産、大量消費じゃないと儲からないじゃないか、生活していけないんだ!という声も聞こえてきそうである。
そもそもそういう恐怖心が、それらのゴミ問題から目を背けさせてしまうのだろうけれど、 そんなにゴミを作ったり、消費しなくてもちゃんとお金も物も循環する、安心して暮らせる社会を作り直さないといけない時代に来ているのかもしれない。
「ゴミ」という問題は、結局人の不安と比例するものなのかもしれないな。

一度、経済的に豊かな生活をした者は、その生活水準を下げると言うことに極度の不安を抱くのかもしれない。
お金で何でも食べれて、欲しいものはその場で買うことができて、いい家を建て車を買って、使いもしないものを大量に所持し、自分がゴミに囲まれていることに気がつかなくなってくる。
日本という国は電気や水道ガスは当たり前に使えるし、道路もきれいに整備され、公共の交通機関もそろっている。
そのような便利な生活を経験した後に、それらが無い不便な生活に戻るということはとても難しいことだ。
そのような便利なもので、私達の生活は成り立っている。
だからとてもありがたいのだけれど、便利なものの裏には必ずゴミがついて回る。
臭いものに蓋をし続けるのもそろそろ限界がきているのだ。
