*おばぁと仏教

おばぁが92歳で死んだ時、なんでこんなに早死にしたんだと納得がいかなかった。

「なんで、死んだのか?」と私は悶々と考えていた。

 

葬式が済んで、次はだいたい49日の法事をするのが一般的な流れだが、

淡路島では49日より35日の法事の方が大切で、親戚一同集まり法事が行われる。

35日とは、死んだ人が閻魔様の所へ行く日で、

そこでおばぁは生前の善行、悪行を裁かれる。

そこで、集まった子孫達は、裁かれるおばぁのために追善供養というものをする。

追善供養とはなんだ?初めて聞いた言葉であった。

おじゅっさんは説明してくれた。

追善供養とは、死んだ人が生前犯した過ちは、子孫のために犯した過ちかもしれない。

その過ちのお蔭で、子らが生き延びているのかもしれない。

例えば昔なら、食べるものがなく、子供に食べさせるために、

食べるものを盗んだかもしれないし、人を騙したかもしれない。

だから、おばぁの過ちに私達子孫は守られていたのかもしれない。

だから、生きている私達が、この世でおばぁの代わりに善行を積んで、

おばぁの過ちを帳消しにしてもらおうという魂胆なのだと。

その追善供養の方法として、例えば、お墓をきれいにするとか、

仏壇のお供えを毎日するとか、般若心経を写経するとか・・

と聞いた私は、「そうか、写経をしてみよう・・」と考えた。

私は少しだけ書道を習っていたことがあったのと、

何よりもおばぁは信心深い人で、毎朝毎晩お仏壇に般若心経を唱えていた。

だから、写経を始めることにした。

ところがこの写経が面白くない。

小筆は苦手でへたくそだし、筆の用意はめんどくさいし、肩は凝るし、

漢字は読めないし、短いお経なのに覚えられないし、

短気な私はイライラしてくるばかりだ。

それでも何枚か書いたあと、ふと思った。

「そうか、意味が分からへんから面白くないんや。」

すぐ本屋へ行った。ひろさちやの“般若心経88講”という本を買って帰った。

面白かった。あの意味不明な文章にはちゃんと意味があった。

何度も読み返した。

すると今度は、「仏教て、何や?」と思った。

確か、学校の授業でも勉強しているはずだったが、全然覚えていなかった。

だから、仏教とは何なのか、ちゃんと分かっていなかったのだ。

また本屋へ走った。

今度は“仏教入門”と“宗派が分かる本”という初歩的な2冊を買って帰った。

あらかたの仏教の事が分かってくると、

次は、空海や親鸞、日蓮、道元、法然、最澄などの事が知りたくなったので、

また本屋へ走った。

そうやって私は仏教の面白さにのめり込んでいった。

仏教には、大乗仏教と小乗仏教がある。

小乗仏教は、出家主義で、自身が悟り、仏になろうと修行する人々の事だ。

大乗仏教は私達のように出家せずとも、普通に日常生活を送っているだけでも修行であって、皆で一緒に悟り仏になろうとする人々のことだ。

 

小乗仏教は戒律といって、してはいけない決まり事がたくさんある。

盗んではいけない、ウソをついてはいけない、他者を殺めてはいけない・・などだ。

そして、八正道といって、正しく見て、感じて、行動して・・と正しく生きることを求められる。

対して大乗仏教の考え方は、小乗のそれとは違っていて、

例えばウソをついてはいけないという戒律については、

人間というのはウソをついてしまう弱い心の持ち主で、どうしてもウソをついてしまう存在だ。

自分がウソをついてしまうことだってあるだろう。

だから、ウソをついてしまうことが悪い事だと相手を裁くのではなく、

ウソをついてしまった相手を許しなさい、と言う。

他者を殺めたり、だましたりすることも同じで、

自分が加害者になるという境遇に置かれなかったことに感謝しなさい、と言うのだ。

何とも優しいではないか。

人は正しく生きる事なんてできない存在なのだ。

それは人間に与えられた自我のせいだろう。

それは全ての人に与えられていて、人として生きている限り取り除くことなんてできない。その自我は必要があって与えられたのだろう。

人の弱さを知るためかもしれないし、許す心を知るためかもしれない。

人の苦しみを知るためなのかもしれない。

人間関係の中で、相手の悪いところと自身の悪いところがぶつかり合う。

そこから許す事や、苦しみを知っていく。

許し合うことをし続けていたら、今度は相手の良い部分と、

自身の良い部分が相乗効果でお互い高め合えるようになるのかもしれない。

そんな仏教を知ってから、私の心にも変化が見え始めた。

私は若いころ、他者にずっと怒っていた。

たぶん自分にも怒っていたのだろう。

心の中に、いつも火種があって、小さなきっかけでいつでも爆発させることが出来た。

顔は般若のようで、怒っているつもりでなくても、人から

「怒ってんの?」と聞かれることもあった。

どんな顔をしていたのだろう・・。

そんな火種が少しづつ、小さくなっていくのを感じた。

数年前に入社した会社の上司は、瞬間湯沸かし器のように怒る人で、

その怒りの矛先に私がいた。

こてんぱんにやられた。

こんな上司と一緒に仕事なんてできないと、3か月で辞めると言った。

しかし会社は辞めさせてはくれなかった。結局、この上司とは3年間一緒に仕事した。

ある時、ふと気が付いてしまった。

この怒っている上司の姿は、過去の私の姿ではないか、と。

怒りはこんなにも醜いのか、と恥ずかしくなった。

怒りを向けられた相手だけでなく、そばにいる人にまで気分の悪い思いをさせる。

空気も濁って息も吸えないほどだ。その上司は一度だけ本音を吐いた。

「私、しんどい」と。

怒っている本人が一番しんどいのだ。

私も怒っていたので気持ちは十分分かった。

その上司のお蔭で、私の火種がまた少し鎮火していった。

おばぁは、ただ死んだだけだった。「なぜ、死んだ?」のではなく、ただ命が尽きたから死んだだけだ。

仏教は、おばぁから私への置き土産だったのだろう。

未だに怒ってしまう事も多々あるし、許す事も出来ていない。

一番出来の悪い孫だから、仏教でも勉強して精進しろ!と聞こえてきそうである。