*日々是好日・・陰陽論

一日の終わりに、今日あった「いいこと」をいくつ思い出せるだろうか。

毎日を当たり前だと思って過ごしていると、 今日の「いいこと」に気がつかなくなってくる。

「 いいこと」、とは 何か特別なこととか、 私の希望が叶えられたというようなものの事だけをいうのだろうか。

そのような「いいこと」がないと、 今日はいい日だったと言えないのだろうか。

いいこと、って一体何なのだろう…。畑仕事をしながらそんなことを漠然と考えるのだ。

ウチの家にはテレビがない。ガスコンロもない。シンクの蛇口をひねってもお湯は出ない。

よくそんな生活をしているね、と人からよく言われる。

けれど、無ければ無いで慣れてくるもので、寒い季節でもお水で洗いものするし、炊き物はカセットコンロと薪火で済ませている。テレビがなくてもインターネットがあれば知りたいことはすぐ調べられる。

だから、それらを欲しと思うことはないけれど、あったらあったでそれらを使うだろう。

もちろん、それらを当たり前に使っていた時期があったけれど、そのときはそんな不便な生活は想像もできなかったし、それらが有って「当たり前」だった。

便利な生活に慣れてくると、蛇口をひねるとお水が出たり、スイッチ一つでお湯が沸いたり、火が付いたりすることにいちいち「やったー!」と感動したり、

「ありがとう!」と感謝したりすることはない。

だって、「当たり前」なんだもんね。

 

ある時都会から友人が遊びに来たので、うちの畑の夏野菜を使ってバーベキューをした。

都会の友人はうちの新鮮な夏野菜を食べてはしきりに、

「美味しい!新鮮だと味が全然違うね!」

と感動している。

そうゆってもらえると嬉しいのだが、都会のスーパーで売られている野菜を久しく食べていない私には違いが全く分からない。

「そうかなぁ・・別に普通だけど・・」

つまり、新鮮な野菜が当たり前になっていて、うちの野菜が美味しいということに気が付かなくなっていたのだ。

なんだかとっても損した気分だ。これからはもっとちゃんと味わって食べようと思った瞬間であった。

・・・

9月の終わりだというのに風邪をひいた。

寝込むほどてはないにしても、体は重く、いつもどうり動けないし、食事も美味しく食べれない。

思い通りに動かない自分の体にイライラすら感じてくる。

けれど、いつもわたしが歳の事も考えず、やりたい放題に体を動かすものだから、体に無理をさせていたのだろう。

無理がたたってついに悲鳴をあげたのだ。

そんなことでもないと、体が私の意志を聞いて自由に動いてくれていたことに気づきもしない。

思う通りに体が動くのが「当たり前」だったのだ。

大切な人を亡くした事がある。

その人とは言いたい放題、やりたい放題でよく喧嘩したものだ。

いなくなって、初めてその人が居て「当たり前」になっていたことに気づいた。

 「当たり前」とはそういうことだ。

本当はありがたい事なのに、それが「当たり前」になった瞬間から ありがたい事ではなくなってしまう。

だから、今日のいい事に気がつかなくなってしまうのだ。

空気があって、水があって、火があって、

食べるものがあって、家がある。

山があって海があり、

家族や友人や大切な人がいて、

そしてわたしの体がある。

今の私に「当たり前の事」がいくつあるだろうか。

「当たり前」の事にありがたみを感じなくなると、今度は特別な「贅沢」で幸せを感じようとする。

現代の日本人はそんな時代になっているのかな。

もしかしたら、少々不便な方が、幸せを感じることが出来るんじゃないかと思っている。

だって、現代の日本では当たり前の事が、うちでは当たり前ではないから、

便利なものがあると「助かるーー!しあわせーー!」

なんて事になってるもんね。

けれど、世間一般で、「当たり前」と思っていることは、実は「当たり前」ではないのだ。

それらを一瞬にして失うこともあるのだから。

それらが、有る、というだけで、もうすでに是好日なのだろう。

(だって、ありがたい、とは”有り””難い”と書くのだから。)

いや、もし失ったとしても、 深い悲しみの中にあっても、

それらが当たり前ではなく、ありがたいことだったのだと気がつけば、

やがて是好日に転化していくのだ。

私にとって、良いことや悪いことは日々日々起こり続けている。

陰陽思想の太極図はこの世で起こる現象全てを現している。

陰極まって陽になり、陽極まって陰になる。

陰の中に陽があり、陽の中に陰がある。

陰の中の小さな陽や、陽の中の小さな陰は、

陰や陽が極まったときから風船の様にプクーっと膨れはじめ、

どんどん大きくなって陰陽が転じる。

だから、陰の中にある時は、その中の小さな陽をあるだけ見つけ、

風船のように膨らませていけばいい。

陽の中にある時は、その中の小さな陰に気づき、

傲慢にならないように気をつけなければいけない。

陽の中にある時は、小さな陰に気がつきにくい。

明るくまぶしい部屋の中に小さな黒い点があっても気がつかないのと同じだ。

陰の中にある時は、小さな陽は探せば安易に見つけられる。

真っ暗な夜空に小さな星が瞬くように、きらきらしているからだ。

夜空をじーっと見続けていると、小さな星のきらきらの数が増えていく。

それと同じで探せば探すほど小さな光をたくさん見つけられるだろう。

陰が悪くて陽が良い、ということではない。

陰がないと陽はないし、 陽がないと陰はない。

光と影があって初めて立体となり、美しい景色が生まれる。

そして私達人間は、対極のものがないと、認識する事ができないのだ。

私達が良いことと思っている事は、いつか悪い事に転じるかもしれないし、

悪い事と思っていた事が、いつか良い事に転じるかもしれない。

良い事の中には少しだけ不満に感じる部分があるし、

悪い事の中にも不幸中の幸いと感じる部分がある。

善玉菌がいるから悪玉菌がいて、

泥棒がいるから、警察がいて、

敵がいるから味方がいる。

私、という一人の人間の中にも天使と悪魔が同居しているのだ。

不自由があるから自由があって、

悲しい事があるから嬉しい事もあり、

辛い事があるから、楽がある。

陰と陽はバラバラであって、セットなのだ。

”どちらからも”、逃れる事はできない。

ならば、 悪いことから逃れようとするのではなく、

私がどちらに意識を向け、それを大きく膨らせるか。

その選択しだいで、今日を是好日にすることができるはずなのだ。

言うは易し、行うは難しで簡単なことではなけれども、

選択するのは結局、私なのだ。

もしそうすることができれば、 特別な事がなくても、

いつでもどこでも何をやっていても私達は、

毎日を日々是好日にしていくことができるのだ。