野菜を栽培していると、連作障害という事が起こってくる。
・・・らしい。
連作障害とは、同じ場所で、何年も同じ作物を育てていると、土壌のバランスが悪くなり、作物がだんだんと育ちにくくなる、という現象のことをいう。
だから、毎年なるべく去年とは違う場所に作物を植えるように気をつけるのだ。
淡路島の慣行農業だと、毎年同じ畑で、一年を通して米、レタス、玉葱、と繰り返し繰り返し休む間もなく作っていくのだが、 肥料をすき込んでいるから、養分という点では問題ないのだろうか。

自然農では、特に肥料をたくさん入れる訳ではないので、 野菜達はその場にある養分で時間をかけてゆっくり育って、寿命を全うする。
だから、あまり連作障害を気にする必要はないと言われている。
じゃあ、実際のところはどうなのだろう。 毎年同じ場所で育てていたら、連作障害で育たなくなるのか、ならないのか…。
ウチの畑で育つ野菜は、 種を畑に直接蒔くもの、ポットで苗を育ててから植えるもの、 もしくはこぼれ種で育つものがいる。
私が種を蒔いたり、苗を植える時はなるべく去年とは違う場所で育てるようにしているが、
こぼれ種で芽を出したものに関しては、間引き以外で私はなるべく手を出さないようにしていて、
野菜達が種を落とした所で勝手に芽を出し、成長し、実をつけるに任せている。

例えば、ゴーヤ、人参、牛蒡、からし菜、ルッコラ、小豆あたりであるが、 毎年同じ場所で育つものもいれば、少しづつ移動しているものもある。
野菜が種を落とす場所は、 自分の足元にポトリと実を落とすもの、(ナス科など)
種の鞘がパーンと弾けて飛び散らかすもの、(アブラナ科やモロヘイヤなど)
花が咲く前にぐーんと背を伸ばして種をつけ、やがて枯れて倒れた所で種を落とすもの、(セリ科など)

ツルをグングン伸ばして地を這った先で実をつけ種を落とすもの、(ウリ科など)
タンポポの綿毛のように、風に飛ばされていくもの、(レタスなど)
美味しい実をつけて、鳥などに運んでもらうもの、(果樹など)
種の鞘のイガイガで、動物に運んでもらうもの、(牛蒡など)
と野菜によって様々だ。
野菜達は、種を落としたい所に種を落としているのだろうか。
ツルを伸ばした距離、
茎を伸ばした距離、
遠くに運んでもらいたいものや、
近場でいいものもある。
移動したいもの、する必要がないもの
それぞれが自ら決めているように見える。

畑のこぼれ種で育つゴーヤは、地這でツルを伸ばすけれど、 毎年ほぼ同じ場所で育ちながら、 少しづつ移動している。
3年ほどかけて隣の畝に移動する程度だろうか。 いわゆる連作障害になりそうな環境であるが、そんなことにはならず、 むしろ私が種を蒔いたものよりずっと元気に勢い良く育ち、沢山実をつけている。
小豆もゴーヤと同じく短めのツル性で、これも毎年ほぼ同じ所で育ちながら、少しづつ移動しているが、 連作障害どころか、毎年実の量を増している。
人参は茎を1〜1・5m位に伸ばして種をつけ、茎が枯れて隣の畝に倒れ、翌年は隣の畝で育っている。
からし菜、ルッコラは、鞘を弾かせ種を飛ばすが、そんなに遠くに飛ばないので、ほぼ毎年連作であるが、こちらも私が蒔いたものより元気で虫食いもなく大きく育つ。

不思議なものだ。
私が、手をかけ、時間をかけて、 連作障害を気にして、 種をまいたり、苗を育てたりしたものよりも、 こぼれ種で、勝手に芽を出し育つものの方が、 連作だろうがなんだろうが、元気でキレイで、実を沢山つけるのだ。
その野菜の事を、本を読んだり、ネットで調べて勉強したりもするのだが、 こぼれ種で育つ野菜のように立派なものを育てられないのだ。
連作がいいのか、悪いのか、 結局はその野菜自身が知っていて、自分で決めているようだから、 それが一番正しい答えなのだろう。

移動したそうだったら離してあげればいいし、
その場がいいなら連作しても問題ないのだろう。
植物達は、いつ芽を出して、花を咲かせ、実をつけて命を終わらせればいいのかということを、ちゃんと知っているはずだから、
人に依存していない野菜であれば、野菜達が生きたい様に、ある程度放っておいた方がよく育っているように思う。
そんな野菜の声を聞きながら、農業していければいいのだが、 なんせ野菜は言葉を発しない。
芽を出してから枯れるまで、半年から1年間その姿を観て、聴きとらなければいけないのだ。

農家は収穫したら、次を育てなければいけないから、 種が出来るまで待てないし、野菜の声を聞くなんて悠長なことをしている暇はない。
だからやっぱりウチの畑は、中途半端な自給農業でも、のんびり野菜の生長を見届けて、彼らの声を聞いてみたいな、と思うのだ。
